他人の不幸話をどうしても読みたい人向け①幼少時から

私はもう身元がばれているので、ある意味すっきりとふっきれました。

近所の人だとか、私の過去を知りたいコソコソさんが多くて気持ち悪い反面、もう全部書いてしまおうと今回長い長い話を書くことにしました。地名や勤め先などは一応伏字にします。
①からいくつまでになるかは分かりません。


それではスタート。

幼少時から。

某県某市にて玉のような可愛らしい娘として誕生・・・
と書きたいところだけど、当時の写真を見ると虫みたいな赤ちゃんだった。
お世辞にも愛らしくもかわいくもない赤子時代。
哺乳瓶を斜めにくわえて歩行器に乗り、たまにマフィアのような悪い顔をして笑っている写真が残っている。

一歳頃までは生まれた都市に住んでいたようで、そこは父(当時29か30)の持ち家だった。まあ、建てる時に伯父がかなり援助してくれたらしいという話は聞いていますが。

その後、一歳半ぐらいか、そのぐらいの年齢の時に中野市に移り住んだらしい。
「会社の社宅にて」という写真が出てきた。
この頃の記憶はほとんどない。


ただ、亡き両親と兄と御陵にお花見に行った写真が残っていた。
車はニッサン。車種はスカイラインかな。検索してみたけどよく分からなかった。
青い車。コバルトブルーに近いような褪せたブルーの車だった。
赤子の私を抱き上げて桜に触らせている写真、
父が「こっちおいで」をして、私が突進していく写真が残っている。

この時のことはしっかり記憶に残っている。
たぶん、人生の中でこの時が一番幸せだった。


父は、その後恐らく1年ほどで体調を崩して転職したらしい。
(後に、私が尿検査で引っかかるたびに、「俺も疲れると血尿が出る」と言っていた)
その次に住んだ家も社宅だった。
主に覚えているのは、この社宅に越してからのこと。
社宅は勤め先から徒歩数分の距離。
通勤にはとても便利だった。
(私もそんな物件あったら住みたいぐらい)
ただしボロかった。
当時はあれが普通の共同住宅だったのかどうか分からないけど、
なんか色々汚かった。トイレは和式だったのは時代的に仕方がなかったのかな。

父は近所の勤め先で働き、母は母方祖母が経営する美容院兼理容院で美容師としてパートで働いていた。(実際の給料形態は知らない。お小遣い程度なのか、プラスアルファでくれていたのか。)

日曜日は父の仕事が休みだったけど、母はたぶん働いていた。
そのせいで、私はたまに日曜にに父の競馬観戦に付き合い、府中競馬場に一緒に行っていた。父は当時ギャンブルにはまっていたのである。先に書いておくが、ギャンブル酒乱等ではない。ただ経済DVはうっすらあったかもしれない。 母方祖母に小遣いの無心に行っていたと、父が亡くなった後に知った。頻度は不明。
私はというと、競馬場で一人残され花壇の花を眺めていても、すぐに飽きてしまい、父の「すぐ帰る」が「すぐ」じゃない事に気づいて泣き出す。
「まーだー」「まーだー」「ここどこー」
私はそんな調子だったので、もしかしたら兄の方が一緒に行っていたかもしれない。


そして、気づくとしょっちゅう母が入院をしていて、私が幼少期に母親と過ごした期間がとても短かった。退院してきた日に母に甘えたら「セットした髪がくずれるわ~」と言われたのは覚えている。でも久しぶりに会ったからベタベタしたくて、わざと母の髪をめちゃくちゃにした。その時は、本当に疲れているのか、母はだるそうな顔をしていた。でも怒られる事はなかった。


ある年の12月、私はおそらく2歳。
その12月。「仕事行ってくるね」という母を窓から見送った。
足を外にぶらぶらと放り出せる柵がついている窓だった。
私はいつもそうやって母を見送っていた。
母は、入院する時にもそうやって誤魔化して出て行って戻ってこなかったので、私は毎回確認していた。「本当に帰ってくる?」「本当に?」
母は気だるそうに振り返り「ちゃんと帰るから」と言って、すぐに踵を返して出かけてしまった。白っぽい、70年代に流行ったワンピースを着ていたような記憶がある。

でも、母は戻ってこなかった。
それが私2歳の冬。3歳になる少し前だった。

その後、何日間かは覚えていないけれど、母と会えなかった。
もしかしたら数時間だけだったかもしれない。

次に私の記憶に残っているのは、棺に横たわっている母の姿だった。
菊の花が敷き詰められていたような記憶がある。
「お母さん起きて」と泣いても叫んでも母はぴくりとも動かず
子供の私にも異常事態だということは感じて取れた。
室内に張られた縦じまの変な幕(葬式用)。
私には「母親の死」は受け止められなかった。
最後の最後まで粘って、「連れて行かないで」「お母さんを連れて行かないで」と泣いた。顔の前にある観音開きの扉を閉めるときも、「なんで閉めるの」と係員の人に食ってかかってたような記憶がうっすら残っている。「いやだー、連れて行かないでー」の連呼だった。最後は、親戚か私の父が私を棺からひっぺがして、母はどこかに連れて行かれてしまった。(斎場だと思う)だけど、納骨の儀や葬儀などに私は出た覚えがない。
あまりの泣きように除外されてしまったのかもしれない。

そこからは本当にあまり記憶がない。
でも、なぜか母方祖父がセルフアボンしたと聞いた。葬儀には行っていない。

母がいなくなって、父はその寂しさを紛らわすためか、女性をとっかえひっかえするようになった。私も3歳4歳になってくると顔立ちが少しはっきりしてきて、だんだんかわいらいしい(恥)顔になってきた。子供だから体系もコロコロしている。
そんな私が甘えた顔で、「お姉さん、私のお母さんになって」と美人な女性の膝に抱きつく。そうすると、なぜかお姉さんたちは母性本能をくすぐられるらしく、気づけば父と・・・私は外に行ってろとポイされた。

これは何回も何回もあり、後に父が後妻として正式な妻を迎えた後、ちょっとした修羅場が起きることになる。


続く

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