他人の不幸話をどうしても読みたい人向け③中学時代と母の死の真相

中学に上がる少し前、我が家は父の仕事の都合で引越しをした。
現在の中学校の制度はよく知らないけど、当時は、公立中学に通う場合は、住んでいる場所で通う中学が割り振りされた。「学区」という呼び名だったと思う。

引越しのため、同じ小学校の子達が通う中学の学区からは外れてしまった。
小学校の卒業式には、仲が良かった友達と離れるのが寂しくて泣いた。
式の後に謝恩会のようなものがあったけど呼ばれなかったような。まあどうでもいいけど。

引っ越し先の家は、なぜか二箇所の中学が選べる場所にあった。どちらを選ぶか聞かれたのでこれは覚えているけど、近所に住んでいた同じぐらいの年の子で、別の中学に通っていた子はいなかったように思う。

で、選んだ中学に通うことになったが、たまたま同時期に同じ小学校の子が同じ学区内に引越しをした。仮名Aちゃんだ。

知らない人ばかりの中学生活なので、 私とAちゃんはすぐに仲良くなった。
おそらく学校側の配慮で、一年の時は同じクラスだった。
二年も同じだったかな。なぜか覚えてないんだけど。三年では別のクラスになった。

彼女とはほぼいつも一緒にいたけど、クラス替えのタイミングでお互い新しい友達が出来た。

親は色々言っていたけど、その新しい友達は特に悪い子達ではなかった。
それよりもAちゃんの虚言癖が凄かった。
大人になるまで私も気づかなかったけど・・・中学時代より大人になってからが最悪だった。色々あり過ぎてここに書くのは躊躇われる。


中学はとにかく面倒だった。
特に教師に無視をされる等がなかったのには救われたけど、体罰がOKかNGかという問題が出た頃だったので、微妙な体罰を加えてくる教師も、まあいた。
「俺がハゲだと笑っただろう」と濡れ衣を着せられて耳を引っぱられたのはいまだに不満。お前のハゲなど気にも留めてないわハゲ。
担任はいい人だった。

何が面倒だったかと言うと、中学のくだらないルールだった。
上級生とすれ違うときにはお辞儀をする。相手が知らない人でも、お辞儀をしないと呼び出されるという、意味がわかんねーよ、ばーか、なルール。


体育の女教師も最悪だったなー。小池だったかな・・・。
徹底的にマークされて、いつも「2」をいただいていましたw
担当が男性教師にかわったら「3」になりましたけど何でですか。


中学での学校生活であまり楽しかった記憶はない。
勉強が好きと以前書いたけど、ただ詰め込むだけの勉強は大嫌いだった。
分からない部分をどうやったら分かりやすくするか、どうやったら覚えられるか、という教育は当時皆無だった。だから今になって勉強したい事が山ほど出てきて、PCで勉強をしているというわけ。


家でどうだったかというと、もう大変大変。笑えるぐらいに最悪だった。
兄も私も反抗期。
毎日家中に罵声が飛び交っていた。
こちらが臨戦体制でなくても今母が食ってかかってきたので、毎回怒鳴りあいに発展していた。ただそこにいるだけで嫌味を言われる毎日だった。
「早く出て行け」と毎日のように言われた。本人は今では「覚えていない」とシラを切っているけど。

この頃には、冷たい水での雑巾がけは拒否していた。
お湯を使うのを禁止されていたので、お手伝いのレベルを超えているだろうと思い。
兄も私も自分の部屋だけは自分で掃除していた。
自分の食事の皿も洗っていた。
この2つは小学生の頃から。
洗濯も自分でやっていた。
部屋の掃除や食器洗いなどには、私は特に不満はなかった。
ただ、制服のクリーニング代を要求するとあからさまに嫌な顔をされるため、小遣いをためて出した事があった。(高校時代はバイトをしたためほとんど自分で出してた)
父親がいる時といない時の食事内容が違った。
また、父がいる時は同じ食卓で食事をしたが、不在時にはキッチンで食べろと言われ、暖房も冷房もないキッチンで豆電球一つの下で兄と食事を取った。

それもこれも本人は一切覚えていないそうで、認知症なのかなと少し思います。


この中学時代に、初めて不眠症になった。
夜眠れない、朝起きられない
三年生頃には学校に行かない日が多かった。
なぜかそれを父親も放置していたという不思議。
起こしにすら来ない。
担任が心配して訪ねてきても、親に起こされた事は一度もない。

もっとも、夜中に誰かにカラダを触られるので、私の部屋のドアを開かないようにしていたのは私自身なんだけど。触っていたのが誰かは知らない。確かめるのすら気持ち悪かった。とにかく早くこのおぞましい家から出たいと、ただそれだけを願っていた。
(一人暮らし資金を貯めようとして、小学生時代に新聞配達をやりたいと父に言ったが許可されなかった。めんどくさい家だった。)


そんな状態なので、もし悩みがあっても一切相談などできなかったし、進路の話などほとんど出来なかった。進路相談という話をしたのは、たった一回だけだった。

先の子供二人が邪魔でしょうがないという父親の気持ちがとても伝わってきた。
(父は今母との間に一子を儲けた)



そして、中学3年(だったかな)、家出を決行した。
行く先は母方祖母の家。
一人で行ったことはなかったけど、なんとなくの記憶を頼りにたずねて行った。
そして無事到着するも、やっぱり親に連絡が入り・・・
翌日だか翌々日に私は実家に戻った。

その晩、実母の死因を聞かされた。
母方祖父のセルフアボーンの話もその時に聞いた。
そして、今母がそれを知ったときの状況なども聞いた。
今母のショックも分かるけど、そんなの私たち子供のせいではないにもかかわらず、その時私を責めるような口調だった。その時に「この人とは無理だな」と思った。

余談だけど、実母は祖母家に養子で入っているので、私が祖母と思っている人は私と血が繋がっているのかどうか不明。母がどこの家から養子に来たのかなど、いまだに知らない。親戚筋からもらわれてきた、と最初は聞いたが、子供の頃から周りの大人がずっと私に嘘ばかりついてきたため、もうどれが本当なのか分からない。ただ、セルフアボーンしたのが私の実の祖父ではないことは明らか。縊死だった。
私の母は、養子として入った家の息子に刺されたのが死因だった。
シンナー中毒のキチガイだった。
その責任を取るため、戸籍上の祖父がセルフアボーンした。遺書にそう書いてあったそうだ。


この件に関してだけの後日談。
私は母親を刺した男が出所しているのに気づき、大人になってからわざと何度も家を訪れている。やつがどんな生活をしているのか見るためと、いつか復讐するつもりでいたからだ。 やつが母にしたのと同じ方法で○ってやろうと思っていた。最初は復讐など考えていなかったが、この男が、出所後に「人を○した」と自慢していたという話を耳にした。その時の悔しさは今でも忘れられない。私の怒りに火がついた瞬間だった。
でも、戸籍上の祖父が「許してくれ」とセルフアボーンしたことを考え、何度も思いとどまった。

そうこうしているうちに、やつが「病死」したと知らせが届いた。
嬉しいという気持ちと悔しいという気持ち、半々だった。
復讐はできなかった。 この手にかけてやりたかった。

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